刑事裁判の大原則に「疑わしきは罰せず」というものがあります。
犯人であるかどうか疑わしい人、不確かな人、怪しいだけの人を処罰してはいけないという原則です
・・・(続きはこちら) 刑事裁判の大原則に「疑わしきは罰せず」というものがあります。
犯人であるかどうか疑わしい人、不確かな人、怪しいだけの人を処罰してはいけないという原則です。
実際にどういう基準で判断されるかというと、その人が犯人であることが「合理的な疑いを超える」程度に証明されなければ有罪にできないとされています。
この「合理的な疑いを超える」程度がどの程度のものかというと、一般人の常識に照らして「間違いない」と確信できる程度とされています。
「100%有罪である」という状態までは求められていませんが、「疑いを差し挟む余地がない」ほどの状態は必要とされています。
では、「合理的な疑いを超える」程度の証明があったかどうかを判断するのは誰でしょうか。
ご存じのとおり、裁判官です。つまり、人間です。
人間が判断するので、時には「合理的な疑いを超える」程度の証明があったとは言えないのに有罪判決が下されることもあります。
日本は三審制ですから、判決の内容に不服があれば、控訴、上告ができますが、結局判断をするのは人間です。
控訴審の裁判官が「合理的な疑いを超える」程度の証明があったかどうか内心疑わしいと思ったとしても、一審判決を覆すのが面倒だな、迷うなと思ったら、理屈をつけて一審判決と同じ判断をしてしまえばいいのです。
社会に注目されていない事件であれば、そのような動機はより働きやすいと考えられます。
日本は起訴されたら「99.9%」有罪などと言われています。
刑事事件をやっていると、そうなるのは当然だよな、と思ったりもします。
なぜなら、さすがにこれは「合理的な疑いを超える」程度の証明があったとは言えないから無罪になるだろう、というような事件でも、ふたを開けてみたら有罪判決が下されるからです。
結局、このように、「合理的な疑いを超える」程度の証明があったとは言えない事件も有罪にされているからこそ、「99.9%」という驚異的な数字が出てくるのだと思います。
特に若手の裁判官などは、「99.9%」が有罪判決という現実の中で、無罪判決を書くというのには、よほどの勇気がいるでしょうし、無罪判決を書くことで異端児扱いされてしまうかもしれません。場合によっては自分の出世に響くかもしれません。
もちろんしっかりとした判断をする裁判官もたくさんいますし、無罪判決が下されることももちろんありますが、実際にはもっと無罪判決が出ていてもおかしくないと実感します。
ただ、一方で、真実は犯人であるにもかかわらず、提出されている証拠がそれほど強くないことをいいことに、あわよくば無罪になるかもしれないと考えて、自分はやっていないと主張し続ける犯人もいるでしょう。「疑わしきは罰せず」を逆手にとった状態です。
こういった犯人について、「合理的な疑いを超える」程度の証明がないから無罪にしてしまうというのも、それはそれで不合理だったりもするわけです。被害者がいる事件であれば、なおさらです。
だからといって、「合理的な疑いを超える」程度の証明がないにもかかわらず有罪にしていたら、冤罪は永遠になくなりません。
刑事裁判は、その難しさと責任の重さの中で、「真実の発見」と「人権の保障」の双方を守るバランスが常に求められていると言えます。